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にじいろちらしずし第1.5弾
第一部 映画『ジェンダー・マリアージュ』上映
第二部 座談会「日本の学校におけるLGBT問題」
8月11日(木)祝日!
午前の部 9時30分オープン、10時スタート
午後の部 13時30分オープン、14時スタート
場所 ウィルあいち 視聴覚ルーム
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参加費(会場費、資料費) 一般1,500円、学生1,000円
お申込み・お問い合わせ
rchirashi★merushika.com
(★を@に改めてください。)
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2015年04月01日

日本国憲法と同性婚

スミスPです。

 渋谷区のいわゆる「同性パートナーシップ条例」が昨日可決されて、今日から一応施行されています。ただし、いわゆる「同性パートナーシップ」に関する条項は未施行ですので、お間違えなきよう。

 この条例をめぐって、にわかに脚光を浴びた感のある憲法24条の「両性の合意のみ」規定。これは同性婚を否定するものなのか?

 まとめてみました。

 まずは、NPO法人EMA日本の見解。24条成立の経緯の簡単な説明と、24条と他の条文との整合性について、要領を得た説明がなされています。



 なお、この記事に付けられた最初のコメントは典型的ホモフォビアです。

 次に、弁護士27人へのアンケート調査。「憲法は同性婚を認めている」が9票、「認めていない」1票、「どちらでもない」が17票です。

 「どちらでもない」の意見も必ずしも判断停止ではありません。「憲法上の権利として認めていないが禁止まではしていない。法律によって認めることは差支えない。」「同性婚が整備されたからと言って違憲とはならない」という肯定的意見が多く見られます。



 私見では、「認めていない」の意見にはいくつも疑義があります。以下に列挙します。

「日本国ないし日本人の民族の文化風俗として、婚姻に同性婚は含まれていないこと。」

【疑義】EMA日本の見解にも記されているように、また、他の弁護士も意見の中にもあるように、24条は親による婚姻の強制と男性による女性支配を矯正する目的で定められた経緯があります。つまり、「日本国ないし日本人の民族の文化風俗」における婚姻制度を改善しようとする条文なのです。これを「日本国ないし日本人の民族の文化風俗」おける婚姻制度を単純に是認するものと解釈するのは、筋違いではないでしょうか?

「憲法24条1項の「両性」という国語的意味として同性は含まれないこと。同項はまた「夫婦」とあり、明らかに男女の婚姻を考えていること。」

【疑義】歴史的経緯を顧みない逐語的解釈ではないでしょうか?

「条文化するには、議院の議決だけでなく国民投票が必要なトピックであると考えます。」

【疑義】多数決は民主主義の主要プロセスではありますが、一方で少数意見を切り捨てやすい弊害もあります。それを考えると、少数者の権利を国民投票に委ねること自体、多数者による人権侵害を正当化する結果に陥る懸念は否めません。こういう事案こそ公開での合議によって決定されなければ、代議制を取る意味が失われるのではないでしょうか?

 もっとも、国民投票にかけたら否決されるかと言えば、そうとも限りません。





2013年7月の43%から今年3月の53.5%に。世論調査は方法も対象も必ずしも一致しないものなので、単純に比較はできないかもしれませんが、10%の増加は誤差ではないはずです。

 では、具体的にどの政党が同性愛・同性婚について、どのような立場を表明しているか、確認してみましょう。



 渋谷区の動きに呼応する形で、国会でも、LGBTに関する課題を考える議員連盟が発足し、「多様性のある社会の実現」を目的に掲げました。

 その呼びかけ人に自民党議員もいますが、その人も「同性婚は憲法違反」と明言し、渋谷区の条例についても「憲法に明確に反する」と断言しています。



 そういう前提での「多様性のある社会の実現」って、どういうことなんでしょう?

 ロシアの同性愛抑圧が原因でソチ五輪で開会式ボイコットまで起きたから、与党は2020年の東京五輪で同じような事態が起こるのを恐れているという、穿った見方もあるようです。




posted by TACO at 17:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月11日

同性婚をめぐって連日かまびすしい件

スミスPです。

まとめてみました。

2月12日 東京都渋谷区は、同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例案を三月区議会に提出することを決めた。

東京新聞(TOKYO Web)朝刊http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015021202000140.html



2月18日 安倍首相が参院本会議で「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」と述べる。

朝日新聞デジタルhttp://www.asahi.com/articles/ASH2L5JN2H2LUTFK00G.html
弁護士ドットコムhttp://www.bengo4.com/topics/2722/



3月4日 自民党の柴山昌彦議員が「ビートたけしのTVタックル」で「同性婚を制度化したら、少子化に拍車がかかる」と発言。
翌日 柴山議員は「科学的に証明されてないことは当然知ってますが、制度化により全く影響がないとも言えていません。」とツイート。

ツイナビhttp://twinavi.jp/topics/news/54f5cea7-eab8-4e5c-a024-4a76ac133a21?ref=sp_tw





3月10日 自民党の谷垣幹事長が「同性結婚相当の証明書」発行に懸念を表明。

NHKニュースWEB http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150310/k10010010131000.html









3月10日 渋谷で「頑張れ日本」というノボリを立てた集団が「LGBTは社会を乱す」としてデモを行う。虹の旗を持った人々がこれに対抗。

Buzzap! http://buzzap.jp/news/20150310-lgbt-hatedemo-ldp-anti-same-sex-marriage-gaybar-control/












posted by TACO at 11:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月03日

集団わるふざけの作品

 スミスPです。

 久々に投稿します。

 集団わるふざけの映像作品を、先日、ジェンダー・女性学研究所で鑑賞しました。

 作り手にとって切実なものが込められている作品なのでしょう。そういう感じは伝わってきます。ただ、その切実さに共鳴するには至りませんでした。

 自殺と性別違和が主要なモチーフになっていますが、モチーフの提示のみに止まってしまって、あまり展開しません。2つのモチーフが「性別違和は自殺の原因になるほどつらい」というふうに直結していて、性別違和がどのようなもので、どのようにして自殺念慮に至るのかという、具体的描写に乏しいのです。

 表現形態は静止画と字幕を組み合わせた動画、というユニークなものでした。静止画を並べて動画にする手法は、ボラギノールのCMが以前から繰り返し用いていますが、あちらは台詞がナレーションで入ります。集団わるふざけのものは台詞も全部字幕で表示していて、動画の特性に思いきり背を向けているという意味では徹底しています。

 ただ、そうした手法がどのような意図で用いられているのか、私には了解できませんでした。また、静止画に字幕を重ねたカットと字幕だけのカットがあって、意図的に使い分けているようですが、その使い分けに気が付くのにも時間がかかってしまいました。

 それでは、どのようにしたら、よりよく受け手に伝わる作品ができるのか?

 この作品とは方向性が異なるかもしれませんが、エンターテイメント系の作品を例にして具体的なことを説明してみます。エンターテイメント系の方がストーリーを組み立てるためのノウハウがしっかりしているものが多いので、わかりやすく説明できるだろうと思いますので。

 まず、表現手法について、『魔法少女まどか☆マギカ』を例にして説明します。(未見の方はネタばれ注意)

 まどマギで魔女は人間の姿ではなく、奇怪な空間として表現されます。これもかなりユニークな表現手法です。

 ところが、魔法少女と魔女の真相が明らかになった時、単にユニークなだけではなく、相応の理由のある表現であることがわかります。

 少女が魔法少女になる時、魂を抜き取られてソウルジェ厶に入れられます。この時点で、少女の身体は魂を失った抜け殻です。そして、魔法少女が絶望に囚われて魔女に変わる時、大量のエネルギーを放出して、宇宙のエントロピーを低減するのに貢献させられます。

 この作品の「エントロピー」は、秩序を崩壊させる負のエネルギーというような意味です。そして、宇宙全体にはエネルギー保存の法則が成立するようなので、宇宙全体に向けて大量のエネルギーを提供した魔法少女は、自分自身がエントロピーを具現化するような存在になってしまうはずです。

 そういう存在の表現として、無秩序な空間が描かれるわけで、身体の脱け殻化の果てが、身体という「殻」すら喪失した虚無空間だというのは、ストンと腑に落ちるものがあります。独特の手法が内容と不可分だったことが飲み込めるからです。

 この「ストンと腑に落ちる」ということが大事なんです。心地よいし、作品への理解が深まるきっかけにもなりますから。そして、独特の表現手法を用いる場合は、その手法が受け手にとって「ストンと腑に落ちる」ために、内容と一体になっていることが重要であるわけです。

 次に、基本情報の提示について。

 フィクション作品の組み立ては、一般に「基本情報の提示→ストーリーの展開」というパターンを取ります。ストーリーを展開する前に、その前提となる情報を一通り明示するのです。

 基本情報とは何か、ということを『女の子に夢を見てはいけません!』というライトノベルを例にして説明してみます。

 主人公は高校生の男子で、姉と妹がいますが、姉も妹も主人公に尋常ではない「愛着」を持っています。

 姉は主人公に女装で外出させて、主人公が恥ずかしがるのを観察したり想像したりするのが大好き。妹は主人公との間にプライバシーという障壁を一切認めないうえに、毎日主人公と一緒に風呂に入りたがる。まあ、人によっては失笑するほかないような「愛着」かもしれませんが、それはここでは問題にしません。

 ともかく、2人のキャラクターが主人公の姉・妹というよく似た立場にあるうえに、二人とも美形で、しかも特殊な愛着によって主人公を悩ませる点まで共通するんだけど、主人公との関係における具体的差異が設定してあるわけです。これが、いわゆる「キャラ立て」の核心部分で、関係を通じて明確に差異が見て取れるという所が重要なのです。

 その差異こそが「個性」と認識されるものだし、そもそもこうした差異がストーリーを動かすのです。登場人物をいくら並べても、そこに差異がなければ、没個性の者たちが代わる代わる出てくるだけになるので、受け手はどの人物にも感情移入しづらいし、ストーリーの展開にも興味を持ちづらくなります。

 また、差異のない関係の中には変化の要因が存在しませんから、変化は常に外から訪れるほかありません。それだと、ストーリーはせいぜい「外からくるものに十把一からげの対応をする」という大雑把なものにしかならないのです。

 『女の子に夢を見てはいけません!』の姉・妹の設定は、その程度の差異があればストーリーが組めるという「程度」の実例ですが、もちろん差異はもっと大きくても構いません。ただし、差異の前提として、相互関係を成立させるための明確な共通点も必要です。

 例をいったん換えて、ライトノベルからアニメにもなった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』の場合だと、ストーリーは、自分を「平凡」と思い込んでいる主人公の男子と、その妹を中心として組み立てられています。妹は主人公に対してクソ生意気で、すぐに暴力も振るうけど、内心は主人公を慕っていて、しかも自他ともに認める美少女です。人によっては「面倒臭い」と思うかもしれないキャラクターですが、それもここでは問題にしません。

 もう一人、重要なサブキャラとして主人公の幼馴染みが登場しますが、おとなしくて思いやりがあり、容貌は地味。主人公の妹とは対照的ですが、「昔から主人公の身近にいる若い女子」という共通点があります。昔から近所に住んでいるから、お互いによく知っていて、幼馴染みが主人公に妹との接し方をアドバイスする。二人とも「主人公の身近にいる若い女子」だから、妹が幼馴染みに嫉妬する。というようにして、ストーリーが動く要因になっています。

 ただ差異があるだけでもストーリーは動かないし、受け手の期待も膨らまないわけで、差異と共通点と相互関係はセットで設定する必要があります。この3点セットがフィクションの「基本情報」です。

 なお、一般にエンターテイメント性の高い作品ほど強烈な「キャラ立て」をしていますから、逆にエンターテイメント性が高くなくてよいのであれば、差異を小さく設定してよいわけです。

 では、例を『女の子に夢を見てはいけません!』に戻して、基本情報の提示の仕方について説明します。

 『女の子に夢を見てはいけません!』では、主人公と姉・妹が具体的にどういう関係にあるか、そして主人公がそれをどう思っているか、最初の10ページで描き尽くしています。

 また、主人公が小心なのに心の中でだけ強がる典型的「イジられキャラ」であることも、それに続く6ページで読み取れるようになっていて、さらには主人公と姉・妹の関係を揺さぶる要因となる2人の美少女キャラが登場することも、続く9ページで予告されます。合計25ページ。

 全部で284ページありますから、最初の1割足らずで、ストーリーを動かす準備が整っている計算になります。基本情報の提示が効率よく出来ています。このくらいを標準と考えるとよいと思います。

 翻って集団わるふざけの作品はというと、主要な登場人物は3人ですが、同じ大学の学生という関係と共通点はわかるものの、「関係を通じての差異」がなかなか見て取れません。自殺と性別違和というモチーフと3人がどう関わるのかが、最も重要な「差異」であり、キャラクターとしての「個性」なのですが、それが提示されるのも中盤以降になってからです。これだと、ストーリーが十分に展開できないのです。

 ストーリーを展開させる作業の中で、作り手はモチーフをどのように具体的に表現するのがよいか自問自答します。その自問自答を通じて、作り手自身の認識が深まり、その深まりが結実することで、受け手を引き込める作品になります。

 というわけで、最後に、ストーリーの展開について。

 ストーリーの組み方については、よく言われる「起承転結」のパターンを意識するということくらいしか定石と呼べるものはありません。これも意識することが基本なので、意識して逸脱することが面白さにつながることもあります。まどマギはマミの死、さやかの魔法少女化、さやかの魔女化、さやかと杏子の死、キュゥべえの真の目的の暴露、ほむらのループの反復の告白、まどかの魔法少女化と、たくさんの「転」がちりばめられた超変則パターンでした。

 とはいえ、そんな特殊な事例だけ挙げても参考にはなりづらいと思いますので、すごく凡庸な例を考えて、「起承転結」を説明してみます。

 「起」はストーリーの発端です。前述の「基本情報」とはしっかり区別しましょう。例えば、主人公が既婚男性だとして、その人の家庭を構成するのがどのような人たちかとか、その人の日常生活がどんなものかというのは「基本情報」です。

 「起」はその生活に変化が生じるきっかけとなるものです。例えば、妻が自分の知らない男と親しげにしているのを見て不倫を疑うとか。このきっかけからストーリーが動き出すと、受け手は不倫がメイン・モチーフなのだと察することができます。(もちろん、その後に受け手の予想を裏切るような展開があってもいいのですが。)

 「承」は「起」からの自然な展開です。上記の「起」を受けるものとしては、妻の不倫を疑った主人公が興信所に依頼して妻の行動を調べあげ、動かぬ証拠をつかむとか。その証拠を妻に見せて、不倫をやめるように説得する、または離婚を迫るという所までは「承」です。

 「転」は意外な方向に話の流れが転換することです。これまでの不倫の例で言えば、妻から想定外の反撃が行われること。例えば、妻との談判の最中、主人公は何度かお茶をすすっていたが、そのお茶には予め妻が毒を盛っていたとか。それはちょっと極端かもしれませんので、もっと凡庸な例としては、妻の方からも主人公の不倫の証拠を突き付けるとか。

 妻が盛った毒にしても、主人公の不倫の証拠にしても、「起」「承」には出てこない新しい要素です。新しい要素が出てくることで話が方向を転換するわけであり、それによってモチーフがまた別の角度から見られるようになるのです。

 なので、新しいと言っても、「起」「承」で提示・展開されるモチーフは継承していないといけません。例えば、主人公と妻が談判している所に突然UFOが飛来して二人を家ごと焼き殺すというのだと、これまでの「不倫」というモチーフと関連しないので、ただのデタラメになってしまいます。(これを意図的にやれば、ナンセンス・ギャグにはなるかもしれませんが。)

 反対に、「起」「承」をただ継承するだけでは物足りません。例えば、妻からの反撃が「ごめんなさい。あなたを愛してるけど、あなたがあんまり構ってくれないから」という言い訳に止まるとか。もちろん現実の世界では、謝まって歩み寄れるのは望ましいことです。だけど、モチーフの展開という観点からすると、この展開は予定調和です。新しいと言える要素が出てこないので、「起」「承」に含まれる「不倫する妻が悪い。主人公は被害者」という道義的図式がほとんど揺らぎません。「不倫」というモチーフの描き方が一面的なのです。

 なぜそれよりは妻が毒を盛っていたとか、妻の方から主人公の不倫の証拠を突き付けるという展開の方がマシかと言うと、毒を盛るのだと問題の次元が夫婦間の道義から性愛の狂気性へと移行するし、妻から不倫の証拠を突き付けるのだと、妻が一方的に悪いという図式が崩れます。こういうふうにして、モチーフの見方そのものが変化することで、作り手も受け手もより広い視野を持てるわけなのです。

(ちなみに、妻が謝って歩み寄るけど、それには実は裏があるという展開もあり得ます。その場合は、妻が謝って歩み寄るのも「承」のうちで、裏が明らかになる所が「転」になります。)

 「結」は「転」からの自然な帰結です。「転」で主人公が妻に毒を飲まされたのなら、主人公はのたうちまわりながら息絶え、それを見ながら妻が「あなたはあの世で幸せになってね」と言ってほくそ笑むとか。妻が主人公の不倫の証拠を突き付けたなら、二人で腹を割って話し合ってそれぞれの不倫に終止符を打つか、決裂して離婚するか、あるいは「お互いの不倫に干渉しない」という妥協が成立するか。

 こうしたプロセスを経ながら、モチーフを具体的に掘り下げて描くのがストーリーです。その具体的な掘り下げの中に、作り手がモチーフをどのように認識しているかが盛り込まれるわけなのです。なので、ストーリーが十分展開しないと、作り手の認識も十分掘り下げられないままになってしまって、もったいないわけです。

 それと、もう一つ、ストーリーを動かすうえで有効なものとして「ギャップ」があります。

 まどマギには、キュゥべえの見かけと正体のギャップ、いかにも萌え系らしく装った魔法少女たちとその運命のギャップなど、ストーリーの核心にかかわる重大なギャップが仕組まれていました。これを世界観のギャップと呼んでおきます。世界観のギャップは最初隠されていて、ある時明らかにされますが、明らかになることでストーリーは新しい段階に入ることができ、しかも、受け手の作品世界への興味を劇的に高める効果もあります。

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』の場合だと、主人公の妹が外ではいかにも美少女らしく可愛らしく振る舞っているのに、家の中では主人公に対してクソ生意気な言動をし、すぐに暴力も振るうというギャップがあります。これを心理のギャップと呼んでおきます。『女の子に夢を見てはいけません!』の主人公が実際には姉・妹に逆らえないくせに、心の中では悪態を吐いたりするのも心理のギャップです。心理のギャップは関係が変化する根本の要因としてストーリーの展開に大きくかかわります。

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』では、主人公は妹が自分を慕っていることに気づいていませんし、幼馴染みの好意が単なる友人のレベルでないことにも無頓着です。まして、妹が幼馴染みに嫉妬していることなど、全くの想定外です。これは関係の中のギャップです。関係の中のギャップには受け手をヤキモキさせるなどして、ストーリーの展開に期待を持たせる効果があります。

 講釈が長くなりました。そろそろ結論らしきものを出しておきます。集団わるふざけが次回作に挑む時には、ぜひ以下の点を心がけてほしいと思います。

1.基本情報を提示する部分と、ストーリーを展開する部分を区別する。

2.基本情報を提示する部分は冒頭に置き、なるべく効率よく提示する。

3.基本情報とは、主要なキャラクターの相互関係であり、その関係に現れる差異である。差異はモチーフとの関わりの違いとして設定する。

4.ストーリー展開の軸は、主要なキャラクターの相互関係の変化に置き、その差異の変化を通して、モチーフを具体的に表現する。

5.表現手法で独自の「お約束」を用いる場合は、それもなるべく早く了解できるようにする。

 これらを実際にやるのは、こうして言葉で説明するよりずっと難しいことで、私自身も今現在、四苦八苦しているところなのですが。

 でも、勝手に次回作に期待します。頑張ってください。

 私が今台本を書いているTACOの次回作にも期待して頂けるとうれしいです。

posted by TACO at 23:52| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする