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にじいろちらしずし第1.5弾
第一部 映画『ジェンダー・マリアージュ』上映
第二部 座談会「日本の学校におけるLGBT問題」
8月11日(木)祝日!
午前の部 9時30分オープン、10時スタート
午後の部 13時30分オープン、14時スタート
場所 ウィルあいち 視聴覚ルーム
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参加費(会場費、資料費) 一般1,500円、学生1,000円
お申込み・お問い合わせ
rchirashi★merushika.com
(★を@に改めてください。)
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2015年03月03日

集団わるふざけの作品

 スミスPです。

 久々に投稿します。

 集団わるふざけの映像作品を、先日、ジェンダー・女性学研究所で鑑賞しました。

 作り手にとって切実なものが込められている作品なのでしょう。そういう感じは伝わってきます。ただ、その切実さに共鳴するには至りませんでした。

 自殺と性別違和が主要なモチーフになっていますが、モチーフの提示のみに止まってしまって、あまり展開しません。2つのモチーフが「性別違和は自殺の原因になるほどつらい」というふうに直結していて、性別違和がどのようなもので、どのようにして自殺念慮に至るのかという、具体的描写に乏しいのです。

 表現形態は静止画と字幕を組み合わせた動画、というユニークなものでした。静止画を並べて動画にする手法は、ボラギノールのCMが以前から繰り返し用いていますが、あちらは台詞がナレーションで入ります。集団わるふざけのものは台詞も全部字幕で表示していて、動画の特性に思いきり背を向けているという意味では徹底しています。

 ただ、そうした手法がどのような意図で用いられているのか、私には了解できませんでした。また、静止画に字幕を重ねたカットと字幕だけのカットがあって、意図的に使い分けているようですが、その使い分けに気が付くのにも時間がかかってしまいました。

 それでは、どのようにしたら、よりよく受け手に伝わる作品ができるのか?

 この作品とは方向性が異なるかもしれませんが、エンターテイメント系の作品を例にして具体的なことを説明してみます。エンターテイメント系の方がストーリーを組み立てるためのノウハウがしっかりしているものが多いので、わかりやすく説明できるだろうと思いますので。

 まず、表現手法について、『魔法少女まどか☆マギカ』を例にして説明します。(未見の方はネタばれ注意)

 まどマギで魔女は人間の姿ではなく、奇怪な空間として表現されます。これもかなりユニークな表現手法です。

 ところが、魔法少女と魔女の真相が明らかになった時、単にユニークなだけではなく、相応の理由のある表現であることがわかります。

 少女が魔法少女になる時、魂を抜き取られてソウルジェ厶に入れられます。この時点で、少女の身体は魂を失った抜け殻です。そして、魔法少女が絶望に囚われて魔女に変わる時、大量のエネルギーを放出して、宇宙のエントロピーを低減するのに貢献させられます。

 この作品の「エントロピー」は、秩序を崩壊させる負のエネルギーというような意味です。そして、宇宙全体にはエネルギー保存の法則が成立するようなので、宇宙全体に向けて大量のエネルギーを提供した魔法少女は、自分自身がエントロピーを具現化するような存在になってしまうはずです。

 そういう存在の表現として、無秩序な空間が描かれるわけで、身体の脱け殻化の果てが、身体という「殻」すら喪失した虚無空間だというのは、ストンと腑に落ちるものがあります。独特の手法が内容と不可分だったことが飲み込めるからです。

 この「ストンと腑に落ちる」ということが大事なんです。心地よいし、作品への理解が深まるきっかけにもなりますから。そして、独特の表現手法を用いる場合は、その手法が受け手にとって「ストンと腑に落ちる」ために、内容と一体になっていることが重要であるわけです。

 次に、基本情報の提示について。

 フィクション作品の組み立ては、一般に「基本情報の提示→ストーリーの展開」というパターンを取ります。ストーリーを展開する前に、その前提となる情報を一通り明示するのです。

 基本情報とは何か、ということを『女の子に夢を見てはいけません!』というライトノベルを例にして説明してみます。

 主人公は高校生の男子で、姉と妹がいますが、姉も妹も主人公に尋常ではない「愛着」を持っています。

 姉は主人公に女装で外出させて、主人公が恥ずかしがるのを観察したり想像したりするのが大好き。妹は主人公との間にプライバシーという障壁を一切認めないうえに、毎日主人公と一緒に風呂に入りたがる。まあ、人によっては失笑するほかないような「愛着」かもしれませんが、それはここでは問題にしません。

 ともかく、2人のキャラクターが主人公の姉・妹というよく似た立場にあるうえに、二人とも美形で、しかも特殊な愛着によって主人公を悩ませる点まで共通するんだけど、主人公との関係における具体的差異が設定してあるわけです。これが、いわゆる「キャラ立て」の核心部分で、関係を通じて明確に差異が見て取れるという所が重要なのです。

 その差異こそが「個性」と認識されるものだし、そもそもこうした差異がストーリーを動かすのです。登場人物をいくら並べても、そこに差異がなければ、没個性の者たちが代わる代わる出てくるだけになるので、受け手はどの人物にも感情移入しづらいし、ストーリーの展開にも興味を持ちづらくなります。

 また、差異のない関係の中には変化の要因が存在しませんから、変化は常に外から訪れるほかありません。それだと、ストーリーはせいぜい「外からくるものに十把一からげの対応をする」という大雑把なものにしかならないのです。

 『女の子に夢を見てはいけません!』の姉・妹の設定は、その程度の差異があればストーリーが組めるという「程度」の実例ですが、もちろん差異はもっと大きくても構いません。ただし、差異の前提として、相互関係を成立させるための明確な共通点も必要です。

 例をいったん換えて、ライトノベルからアニメにもなった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』の場合だと、ストーリーは、自分を「平凡」と思い込んでいる主人公の男子と、その妹を中心として組み立てられています。妹は主人公に対してクソ生意気で、すぐに暴力も振るうけど、内心は主人公を慕っていて、しかも自他ともに認める美少女です。人によっては「面倒臭い」と思うかもしれないキャラクターですが、それもここでは問題にしません。

 もう一人、重要なサブキャラとして主人公の幼馴染みが登場しますが、おとなしくて思いやりがあり、容貌は地味。主人公の妹とは対照的ですが、「昔から主人公の身近にいる若い女子」という共通点があります。昔から近所に住んでいるから、お互いによく知っていて、幼馴染みが主人公に妹との接し方をアドバイスする。二人とも「主人公の身近にいる若い女子」だから、妹が幼馴染みに嫉妬する。というようにして、ストーリーが動く要因になっています。

 ただ差異があるだけでもストーリーは動かないし、受け手の期待も膨らまないわけで、差異と共通点と相互関係はセットで設定する必要があります。この3点セットがフィクションの「基本情報」です。

 なお、一般にエンターテイメント性の高い作品ほど強烈な「キャラ立て」をしていますから、逆にエンターテイメント性が高くなくてよいのであれば、差異を小さく設定してよいわけです。

 では、例を『女の子に夢を見てはいけません!』に戻して、基本情報の提示の仕方について説明します。

 『女の子に夢を見てはいけません!』では、主人公と姉・妹が具体的にどういう関係にあるか、そして主人公がそれをどう思っているか、最初の10ページで描き尽くしています。

 また、主人公が小心なのに心の中でだけ強がる典型的「イジられキャラ」であることも、それに続く6ページで読み取れるようになっていて、さらには主人公と姉・妹の関係を揺さぶる要因となる2人の美少女キャラが登場することも、続く9ページで予告されます。合計25ページ。

 全部で284ページありますから、最初の1割足らずで、ストーリーを動かす準備が整っている計算になります。基本情報の提示が効率よく出来ています。このくらいを標準と考えるとよいと思います。

 翻って集団わるふざけの作品はというと、主要な登場人物は3人ですが、同じ大学の学生という関係と共通点はわかるものの、「関係を通じての差異」がなかなか見て取れません。自殺と性別違和というモチーフと3人がどう関わるのかが、最も重要な「差異」であり、キャラクターとしての「個性」なのですが、それが提示されるのも中盤以降になってからです。これだと、ストーリーが十分に展開できないのです。

 ストーリーを展開させる作業の中で、作り手はモチーフをどのように具体的に表現するのがよいか自問自答します。その自問自答を通じて、作り手自身の認識が深まり、その深まりが結実することで、受け手を引き込める作品になります。

 というわけで、最後に、ストーリーの展開について。

 ストーリーの組み方については、よく言われる「起承転結」のパターンを意識するということくらいしか定石と呼べるものはありません。これも意識することが基本なので、意識して逸脱することが面白さにつながることもあります。まどマギはマミの死、さやかの魔法少女化、さやかの魔女化、さやかと杏子の死、キュゥべえの真の目的の暴露、ほむらのループの反復の告白、まどかの魔法少女化と、たくさんの「転」がちりばめられた超変則パターンでした。

 とはいえ、そんな特殊な事例だけ挙げても参考にはなりづらいと思いますので、すごく凡庸な例を考えて、「起承転結」を説明してみます。

 「起」はストーリーの発端です。前述の「基本情報」とはしっかり区別しましょう。例えば、主人公が既婚男性だとして、その人の家庭を構成するのがどのような人たちかとか、その人の日常生活がどんなものかというのは「基本情報」です。

 「起」はその生活に変化が生じるきっかけとなるものです。例えば、妻が自分の知らない男と親しげにしているのを見て不倫を疑うとか。このきっかけからストーリーが動き出すと、受け手は不倫がメイン・モチーフなのだと察することができます。(もちろん、その後に受け手の予想を裏切るような展開があってもいいのですが。)

 「承」は「起」からの自然な展開です。上記の「起」を受けるものとしては、妻の不倫を疑った主人公が興信所に依頼して妻の行動を調べあげ、動かぬ証拠をつかむとか。その証拠を妻に見せて、不倫をやめるように説得する、または離婚を迫るという所までは「承」です。

 「転」は意外な方向に話の流れが転換することです。これまでの不倫の例で言えば、妻から想定外の反撃が行われること。例えば、妻との談判の最中、主人公は何度かお茶をすすっていたが、そのお茶には予め妻が毒を盛っていたとか。それはちょっと極端かもしれませんので、もっと凡庸な例としては、妻の方からも主人公の不倫の証拠を突き付けるとか。

 妻が盛った毒にしても、主人公の不倫の証拠にしても、「起」「承」には出てこない新しい要素です。新しい要素が出てくることで話が方向を転換するわけであり、それによってモチーフがまた別の角度から見られるようになるのです。

 なので、新しいと言っても、「起」「承」で提示・展開されるモチーフは継承していないといけません。例えば、主人公と妻が談判している所に突然UFOが飛来して二人を家ごと焼き殺すというのだと、これまでの「不倫」というモチーフと関連しないので、ただのデタラメになってしまいます。(これを意図的にやれば、ナンセンス・ギャグにはなるかもしれませんが。)

 反対に、「起」「承」をただ継承するだけでは物足りません。例えば、妻からの反撃が「ごめんなさい。あなたを愛してるけど、あなたがあんまり構ってくれないから」という言い訳に止まるとか。もちろん現実の世界では、謝まって歩み寄れるのは望ましいことです。だけど、モチーフの展開という観点からすると、この展開は予定調和です。新しいと言える要素が出てこないので、「起」「承」に含まれる「不倫する妻が悪い。主人公は被害者」という道義的図式がほとんど揺らぎません。「不倫」というモチーフの描き方が一面的なのです。

 なぜそれよりは妻が毒を盛っていたとか、妻の方から主人公の不倫の証拠を突き付けるという展開の方がマシかと言うと、毒を盛るのだと問題の次元が夫婦間の道義から性愛の狂気性へと移行するし、妻から不倫の証拠を突き付けるのだと、妻が一方的に悪いという図式が崩れます。こういうふうにして、モチーフの見方そのものが変化することで、作り手も受け手もより広い視野を持てるわけなのです。

(ちなみに、妻が謝って歩み寄るけど、それには実は裏があるという展開もあり得ます。その場合は、妻が謝って歩み寄るのも「承」のうちで、裏が明らかになる所が「転」になります。)

 「結」は「転」からの自然な帰結です。「転」で主人公が妻に毒を飲まされたのなら、主人公はのたうちまわりながら息絶え、それを見ながら妻が「あなたはあの世で幸せになってね」と言ってほくそ笑むとか。妻が主人公の不倫の証拠を突き付けたなら、二人で腹を割って話し合ってそれぞれの不倫に終止符を打つか、決裂して離婚するか、あるいは「お互いの不倫に干渉しない」という妥協が成立するか。

 こうしたプロセスを経ながら、モチーフを具体的に掘り下げて描くのがストーリーです。その具体的な掘り下げの中に、作り手がモチーフをどのように認識しているかが盛り込まれるわけなのです。なので、ストーリーが十分展開しないと、作り手の認識も十分掘り下げられないままになってしまって、もったいないわけです。

 それと、もう一つ、ストーリーを動かすうえで有効なものとして「ギャップ」があります。

 まどマギには、キュゥべえの見かけと正体のギャップ、いかにも萌え系らしく装った魔法少女たちとその運命のギャップなど、ストーリーの核心にかかわる重大なギャップが仕組まれていました。これを世界観のギャップと呼んでおきます。世界観のギャップは最初隠されていて、ある時明らかにされますが、明らかになることでストーリーは新しい段階に入ることができ、しかも、受け手の作品世界への興味を劇的に高める効果もあります。

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』の場合だと、主人公の妹が外ではいかにも美少女らしく可愛らしく振る舞っているのに、家の中では主人公に対してクソ生意気な言動をし、すぐに暴力も振るうというギャップがあります。これを心理のギャップと呼んでおきます。『女の子に夢を見てはいけません!』の主人公が実際には姉・妹に逆らえないくせに、心の中では悪態を吐いたりするのも心理のギャップです。心理のギャップは関係が変化する根本の要因としてストーリーの展開に大きくかかわります。

 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』では、主人公は妹が自分を慕っていることに気づいていませんし、幼馴染みの好意が単なる友人のレベルでないことにも無頓着です。まして、妹が幼馴染みに嫉妬していることなど、全くの想定外です。これは関係の中のギャップです。関係の中のギャップには受け手をヤキモキさせるなどして、ストーリーの展開に期待を持たせる効果があります。

 講釈が長くなりました。そろそろ結論らしきものを出しておきます。集団わるふざけが次回作に挑む時には、ぜひ以下の点を心がけてほしいと思います。

1.基本情報を提示する部分と、ストーリーを展開する部分を区別する。

2.基本情報を提示する部分は冒頭に置き、なるべく効率よく提示する。

3.基本情報とは、主要なキャラクターの相互関係であり、その関係に現れる差異である。差異はモチーフとの関わりの違いとして設定する。

4.ストーリー展開の軸は、主要なキャラクターの相互関係の変化に置き、その差異の変化を通して、モチーフを具体的に表現する。

5.表現手法で独自の「お約束」を用いる場合は、それもなるべく早く了解できるようにする。

 これらを実際にやるのは、こうして言葉で説明するよりずっと難しいことで、私自身も今現在、四苦八苦しているところなのですが。

 でも、勝手に次回作に期待します。頑張ってください。

 私が今台本を書いているTACOの次回作にも期待して頂けるとうれしいです。

posted by TACO at 23:52| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ぽめちゃんのリツイートで気がつきました。最近、親バカぐらいこあるっくばかになってるので、ありがたく拝読しました。愛情あふれるご指導に感謝です。
もちろん、わたしもTACOの次回作期待しています。
Posted by あしか at 2015年03月04日 00:36
今朝、メール確認したらリツイートしたのは別の子だったみたい。混同するなんて愛情が足りていない証拠ですね。
Posted by あしか at 2015年03月04日 09:20
ぽめちゃんのリツイートかと思ったら違ったみたいです。
Posted by あしか at 2015年03月04日 09:54
読んでくださってありがとうございます。

ツイッターは1人で複数のアカウントを使ってたり、フォロー関係が錯綜してたりしますから、わかりにくいですよね。
Posted by スミスP at 2015年03月04日 13:03
スミス先生、ありがとうございました。
静止画と字幕という組み合わせ方になったのは、役者同士の予定が合わせられず、時間の制約などから考えた策でした……。集団で1つのものを作る難しさを痛感しました。
自殺を図ろうとした伊織は、本当は自殺なんてする気はなくて、ただ恋愛がうまくいかない理由を性別違和のせいにしている存在として描いていました。テレビで描かれる「可哀想なセクマイ像」を皮肉る存在として書こうとしていました。しかし、もともと仲の良かった2人のキャラクターの間に割って入ったせいでどうしても彼が目立ってしまい、結果的に伊織の性別違和に集結してしまったような気がします。
普段、物語を完結させることが本当に苦手なのですが、物語を展開させていくことが苦手なんだと思いました。このシナリオの主人公にあたる、こころが「夢小説の主人公みたいで心がない」と言われることが多かったのですが、それが他のキャラクターとの差異が確立できていなかったのだと思います。また伊織と、自殺したユイの自殺の原因となる真木は、どちらもセクシュアルマイノリティにあたりますが、その立場の差についても表現しきれていなかったように思います。

今回の反省を踏まえて、次回はもっといいものを作りたいと思っています。TACOの次回作も楽しみにしています!
Posted by ぽめ at 2015年03月05日 11:05
私もTACOの前回公演ではなかなか役者が揃った状態で練習できなくて、しばしば頭を抱えていました。社会人だと残業が多いから、予定通りに集まれないんです。

しかし、学生同士でも日程を合わせるのは難しいものなんですね。それを考えると、「にじちら」って、やれたこと自体が奇跡なのかもしれません。

「心」はその人らしい言動から窺われるものなので、言動に他との差異が明確に見て取れると、その人の「心」を感じやすくなるでしょうね。もちろん差異ばっかり強調すると、わざとらしくなっちゃうんで、さじ加減が必要ですけど。

ストーリーを完結させるのは難しいものだと思います。私も過去2回のTACO公演では、無理矢理終わらせました。

現実の物事には「キレイな完結」のないものの方が多いと思うんです。夏休みみたいに初めから終わりが決まっているものとか、人は必ず死ぬっていうのは別として。

なので、ストーリーは「終わらせる仕掛け」が無いと終わりにくいんです。その仕掛けは「転」に置かれることが多いです。「転」で新しい要素を出して話の流れを変えて、結末に向かう流れに持ち込むわけです。

この「結末」っていうのは物事の終わりというより、叙述の終わりです。更に言えば「そこで話を終わらせることを受け手が納得できる落とし所」です。

本文で挙げた例で言うと、夫が妻に証拠を突きつけて離婚に持ち込むだけだと、一方的な展開だから、あんまり面白くない。でも、妻から有効な反撃があって攻守が逆転という展開にすると、プロセスが充実するから、同じ離婚という結末でも納得しやすい。というようなことです。

伊織の自殺未遂に関しては、狂言自殺の可能性も考えたんですけど、それより前に本当に自殺した人の話も出てくるので、「あっちが本当だから、こっちも本当なのかな」と混同してしまいました。

既存のイメージを逆手に取るのは、そのイメージがすっかり定着してステレオタイプ化していれば割と簡単だけど、性別違和は今まだ社会的認知が進みつつある段階なので、難しいところがあるんだろうと思います。

もちろん表現の成否は題材以上に工夫に左右されるものなので、既存のイメージがどういうもので、伊織の実像がそこからどのように逸脱しているかのが、効果的に提示できれば成立するのかと思いますけど。

そういう所を更に突き詰めると、集団わるふざけだからこそ出来る表現に到達できそうですね。
Posted by スミスP at 2015年03月08日 17:57
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