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にじいろちらしずし第1.5弾
第一部 映画『ジェンダー・マリアージュ』上映
第二部 座談会「日本の学校におけるLGBT問題」
8月11日(木)祝日!
午前の部 9時30分オープン、10時スタート
午後の部 13時30分オープン、14時スタート
場所 ウィルあいち 視聴覚ルーム
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参加費(会場費、資料費) 一般1,500円、学生1,000円
お申込み・お問い合わせ
rchirashi★merushika.com
(★を@に改めてください。)
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2013年07月16日

ポッキリ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 スミスpです。

「にじいろちらしずしの公演は観に行きたいけど、お財布の中が寂しくって・・・」

 そんな方がいらっしゃるかどうかはわかりませんが、もしいらっしゃるとしたら朗報です!

 にじいろちらしずしの公演は何と、何と、なな何と!

ぴかぴか(新しい)ひらめきぴかぴか(新しい)入場料無料ぴかぴか(新しい)ひらめきぴかぴか(新しい)

なのですよ。このたび正式にそのようなことになったのです。

 無料って言ったら、ほら、そこのあなた、

exclamation&questionexclamation×2 タダ exclamation&questionexclamation×2

ってことですからね!

 タダって言ったら、ねえ、あちらのあなた、

ぴかぴか(新しい)むかっ(怒り)ぴかぴか(新しい)0円ポッキリぴかぴか(新しい)むかっ(怒り)ぴかぴか(新しい)

ってことなんですよ!

 ちなみに、ポッキリを辞書で引いたら「硬質の物が不意に折れるさま」って書いてありました・・・・

posted by TACO at 18:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

身体を疑う(再録)

 「7/9・11 練習報告」by かに に書いてあるとおり、9日の練習で久しぶりに能の基本所作をやりました。その意図は4月1日の「身体を疑う」の中に書きましたが、ちょっと長かったので、簡略化したものを再掲します。

*          *          *


 私たち日本人は現在、手足を左右互い違いに出して歩きますが、こういう歩き方をするようになったのは明治以降のこと。江戸時代までの日本人は手足を揃えて出す「なんば」という歩き方をしていました。明治になって富国強兵路線を突き進むために、徴兵制とともに導入されたのが、手足を左右互い違いに出す歩き方だったのです。

 軍楽(マーチ)に合わせてイチ・ニ、イチ・ニと行進するのに、なんばでは具合が悪い。それで明治政府は欧米式の歩き方を学校教育を通して国民にたたき込むことにしたわけです。

 それでは、どうして前近代の日本人が手足を揃えて出して歩いていたかというと、一般的な説では、水田などのぬかるみで歩くのには重心を安定させる必要があり、そのためには手足を揃えて出す方が適していたのだと言われています。(もっとも最近の研究によると、江戸時代よりも更に前の時代には日本の農地は水田以外のものもかなり多かったようですので、なんばの起源が果たして本当に水田なのかということには疑問の余地がなくもありません。)

 一方、欧米は牧畜を盛んに行ってきました。牧畜には家畜に負けない速さで走ることが必要ですから、手を左右に大きく振るのが合理的です。手足を左右互い違いに出す歩き方は、いつでも全速力で駆け出せる歩き方であるわけです。

 とまあ、このように、どちらの歩き方にも伝統的な生産活動という根があるわけですが、どちらが銃弾と砲弾が飛び交い、爆撃機も飛び交うような近代戦争の戦場に適しているかと言えば、それはもう自明です。機械の動く速さに合わせて分刻みのスケジュールで労働したり移動したりしなければならない近代産業社会に適応するのには?これも自明ですね。

 そういうわけで、私たちは先祖がしていた伝統的な歩き方を捨てて、欧米式の歩き方を習得しているわけですが、伝統というものは簡単には滅びないもののようで、特別に緊張した状況で歩くような時には、手足を揃えて出す歩き方がひょっこり復活して、居合わせた人々の失笑を買ったりするのです。

 さて、能の身体技法ですが、能では歩くことをハコビと言います。能は江戸時代よりも前に成立していますから、手足を左右互い違いに出して歩くことはありません。両手を腰のあたりに止めて、すり足でハコビをします。手足を左右互い違いに出すことに慣れた身体には、これだけでもかなり難しい。

 サシコミ・ヒラキで手の動きがつくと、更にギクシャクします。こうした困難に直面することで、気づくことがあります。それは、手足を左右互い違いに出すのもまた、一つの「型」であるということです。

 私たちは普段この歩き方に違和感を覚えません。でも、それがあたかも自然なことのように思えるのは、単に慣れているからというだけのことなのです。「型」というものは慣れてしまえば、楽にこなせるものなのです。能の「型」もまたそうで、慣れるにつれて、うまくできるようになってきます。

 それがわかると、「自然である」という感覚が実は訓練や習慣付けによって「人為的に生み出されたもの」であることがわかってきます。「自然」「普通」「当たり前」という感覚を疑うきっかけが持てるわけです。疑うということは非常に重要です。疑うことがなければ、鵜呑みにすることしかできません。それでは本当に知るということはできないからです。

 まして今回の演劇プロジェクトはセクシャリティやジェンダーについて「自然」「普通」「当たり前」と思われていることを疑うということが大前提になっています。セクシャリティやジェンダーについて疑うことを目的としながら、その表現方法である演劇を疑わないのでは、いかにも中途半端です。

 演劇は言葉と身体を主な要素として成り立つ表現ですから、演劇を疑うということは、必然的に言葉と身体を疑うことなのです。そして、能の所作を訓練してみることは、身体の「自然」「普通」「当たり前」を疑うきっかけになるというわけなのでした。

 そういうふうにしないときっかけをつかめないということは、言い換えれば、私たちは身体をこんなふうに「型」にはめられているにもかかわらず、自分ではそれに気づけないということです。歩くというごく基礎的な動作でさえも、社会的に与えられる「型」に依存していて、しかも、それが社会的に与えられる「型」であることを、知識として知るまでは自覚できないのです。

 私たちは「型」にはまり「型」に慣れて、はじめて自由に歩くことができるのです。仮に手足を左右互い違いに出して歩くことが、富国強兵的な「型」だから嫌だと思っても、別の「型」に習熟するのは容易ではありません。

 自分の身体のことなのに知らされないとわからない。身体にすりこまれた「型」を脱却しようにも、さっさとやめて違う歩き方をするというわけにはいかない。それは恥ずかしく悔しいことです。この恥ずかしさ悔しさを感じるということが重要なのです。

 演技に限らず、人に向かって何かを表現する時は必ずそうです。「知らないなら教えてあげる」という上から目線、「このくらいわかって当たり前」という押し付けがましさ。そういうものが少しでも感じられたら、人は耳を傾ける気をそがれるものです。

 自分も他人も本質的には未熟であり不自由である。そう心得て、ゆめゆめ相手に対して優位な態度、優位な物言いをせず、相手の自由を最大限尊重すること。それができて、はじめて相手にも自身の不自由や不十分さを受け止めるきっかけができるのだろうと思うのです。そして、そういうきっかけができて、はじめてこちらから伝えたいことも伝わりやすくなるとも思うのです。

 そんなささやかな期待を込めて、先日も構えたり運んだり、差し込んだり開いたりしたのでした。

posted by TACO at 12:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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