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にじいろちらしずし第1.5弾
第一部 映画『ジェンダー・マリアージュ』上映
第二部 座談会「日本の学校におけるLGBT問題」
8月11日(木)祝日!
午前の部 9時30分オープン、10時スタート
午後の部 13時30分オープン、14時スタート
場所 ウィルあいち 視聴覚ルーム
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参加費(会場費、資料費) 一般1,500円、学生1,000円
お申込み・お問い合わせ
rchirashi★merushika.com
(★を@に改めてください。)
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2013年07月09日

言葉を疑う

 6月9日に書いた「既成概念をブッ壊すということ その3」の中で「演劇を疑うことなしに行われる演劇は、本当の演劇ではなく、演劇の形を真似するだけの“演劇ごっこ”に過ぎません。」「演劇の主たる構成要素は言葉と身体です。演劇を疑うとは、言葉と身体を疑うことです。」と書きました。

 身体については、4月1日に書いた「身体を疑う」の中に書いてあります。

 というわけで、今回は言葉について書いてみます。

*           *           *


 日本語の書き言葉には大きく分けて漢文体と和文体があります。そして今私たちが普通に書く文章はたいてい漢文体です。いや、書き言葉だけでなく、話し言葉もどちらかと言えば漢文体寄りです。まあ、そういう自覚を持って書いたり話したりしている人は少ないだろうと思いますが。

 例えば現代語の

1.そんなこと知らなかったよ、心細いな。

という文を漢文に訳すと「吾不知之、故不安。」となります。これを訓読(日本の古い書き言葉への機械的翻訳)すると

2.われこれを知らず、ゆえに安からず。

となります。

 一方、和文体に直すとどうなるか。和文体にはいろんなバリエーションがありますが、能や浄瑠璃に見られる精妙な和文体を私なりに真似してみると、こうなります。

3.そんなこととは白波の沖ゆく小舟の夜のともし火

 2と3、1に近いのはどっち? 言うまでもありませんよね。

 上記の例文を比べれば一目瞭然だと思いますが、漢文体は意味がハッキリ正確に伝わり、誰にでもわかりやすい文体です。また、一つ一つのフレーズが比較的短くまとまるので、テンポが良くて歯切れも良いのも特徴です。

 かたや和文体は意味を正確に伝えることには向いていません。意味よりも豊かなイメージを呼び起こすことを主眼とする文体なのです。3の一番のキモは「知らない」と「白波」の掛詞(今で言ったらダジャレ)で、「知らない」を「白波」に置換した上で「白波」に関係する「沖」「小舟」を引き出し、更に「沖ゆく小舟」から「夜のともし火」を引き出すというふうに、縁語の多用によってイメージをどんどん連鎖させていきます。

 「沖ゆく小舟の夜のともし火」は心細いということのメタファーになっているわけですが、メタファーというもの自体あまりわかりやすいものではないし、「知らない」と「白波」がかけてあることに気づかないと、なぜ「沖ゆく小舟の夜のともし火」が続いて出てくるのかすらわかりません。

 それと、言葉の響き、調子で言うと、和文体は分割性よりも連続性、テンポよりもメロディーを重視します。なので、歯切れが良くないかわりに、流れるようなゆるやかな抑揚をもってつながっていきます。3を音数にすると「7・5・8・7」です。8の所は字余りですが、メロディー重視の和文体はたまに字余りがあるくらいの方がかえって繊細な緩急がついて心地よいのです。

 さて、江戸時代まで、漢文体は支配階級の男性が公文書を書く文体でした。かたや和文体は主に女性が用いる文体でした。というか、女性が漢文体で書くことは昔はまずありませんでした。和歌の場合はもちろん男性でも和文体を用います。漢文体で和歌は作れませんからね。和歌は男性も女性も詠むけど、漢詩は男性しか作らないというのが昔の支配階級の習いというもので、つまり漢文体は支配階級の男性の独占物だったわけです。

 そういう文化史的背景もあるからなのだと思いますが、能の謡や浄瑠璃は和文体を基調として書かれます。浄瑠璃を伴奏とする文楽や歌舞伎の台詞も当然、和文体です。能の場合、比喩表現など、一部に漢文体を用いることはありますが、大半の部分は和文体です。

 明治になって標準語と言うものを人工的に作り、国語教育を全国一律にするようになって、方言だけでなく、和文体そのものが衰退しました。標準語を作り一律の国語教育をするのは、国家単位での意思伝達が必要だったからで、意思伝達のためには漢文体の方が断然有用だからです。

 和文体では意味を理解するのに時間がかかっちゃうし、どうしても理解できないという人が出て来ちゃう恐れもあります。イメージをちゃんと受け取ったうえで、それがメタファーとして内包する意味を読み取るには想像力と解釈力の両方を必要としますから。

 それと、テンポが良くて歯切れも良い文体が富国強兵のイケイケドンドン路線に合っていたということもあるはずです。「教育勅語」も「大日本国憲法」も「軍人勅諭」も全部漢文体なのは、そういう理由もあるでしょう。そんなこんなで漢文体を元にして標準語というものが作られ、それによって国語教育が行われ、和文体はいと遠くなりにけるかも。(この「かも」は詠嘆ですよ。「かもしれない」ではありませんので、念のため。)

 では、なぜ江戸時代まで、文楽や歌舞伎のような庶民向けの娯楽だったものまで和文体で書かれていたのか。それはたぶん昔の人は意味を理解することやドンドン調子よく事を運ぶのよりも、ゆったりと流れるような韻律に身をゆだね、絶え間無いイメージのつらなりを楽しむことを好んだからでしょう。それを思うと、昔の人は本当の豊かさを知っていたんだろうと思えてきます。

 支配階級の男性が独占していた漢文体を日本人みんなが使えるようになったのは、あえてどちらかと言えば良い事なんだろうと思います。もちろん意味がわかりやすいというのも決して悪い事ではありません。ですが、意味の伝達ばかりを重視する意識、あるいはそういう社会のあり方には効率至上主義の息苦しさを感じてしまいます。

 考えてみれば、近代国家・日本は成立時から現在まで、ずっとイケイケドンドンでした。戦前は富国強兵でイケイケドンドン、戦後は経済成長でイケイケドンドン。富国強兵のイケイケドンドンは破滅的敗戦に行き着き、経済成長のイケイケドンドンはオイルショックやバブル崩壊やデフレスパイラルを引き起こし、経済成長のイケイケドンドンから生まれた原発はメルトダウンしました。

 それでもまだ「世の中イケイケドンドンじゃなきゃダメだ」ってことになっているみたいで、効率至上主義が相変わらず幅を利かせ、雇用調整とか言って効率のためなら人も切り捨てるみたいなことを続けているのです。

 そんなこんなをもろもろ考えると、せめて自分の作る芝居くらいはイケイケドンドンとはなるべく無縁のものにしたいと思えるのです。そして、そのためには、台詞の文体から根本的に見直した方が良いのではないかという気がしてくるのです。

 とはいっても、上記の3みたいなバリバリの和文体では(こうして文字で読む分には何とかなるとしても)現代のお客さんが耳で聴くのだと、かなりわかりにくいでしょう。さすがに私も「ゆったりと流れるような韻律と絶え間無いイメージのつらなりだけ実現できればいい」とまでは割り切れません。

 そんなわけで、残念ながら、「来たるべき文体」はまださっぱり見えていません。「にじいろちらしずし」の台本が「来たるべき文体」で書かれることもないでしょう。

 ただし、自分たちがふだん話したり書いたりする言葉が実は制度化された言葉であり、ゆったりと流れるような韻律と絶え間無いイメージのつらなりよりも、意味を確実に伝達してドンドン調子よく事を運ぶのを優先するものであることに、なるべく自覚的でありたいとは思うのです。

posted by TACO at 10:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする