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にじいろちらしずし第1.5弾
第一部 映画『ジェンダー・マリアージュ』上映
第二部 座談会「日本の学校におけるLGBT問題」
8月11日(木)祝日!
午前の部 9時30分オープン、10時スタート
午後の部 13時30分オープン、14時スタート
場所 ウィルあいち 視聴覚ルーム
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参加費(会場費、資料費) 一般1,500円、学生1,000円
お申込み・お問い合わせ
rchirashi★merushika.com
(★を@に改めてください。)
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2013年06月25日

“物は言いよう”ということ その1

 スミスpです。

 6月17日(月)に、上演の素材を吟味するミーティングをしました。

 これまで私から参加者に2回アンケートを取ったり、ネタ帳を書いてもらったり、やまたまみさんが参加者から個別の聴き取りをしてくれたりして、かなりの量の素材が集まっていました。その中から「ぜひ使いたい」と思うものを選び出すためのミーティングです。

 私の目から見て「このまま上演に使える!」というものは、さほど多くありませんが、それでいいのです。素材というものはそういうものです。加工して上演の中に組み込まれるのです。

 にじいろちらしずしの上演素材も「即戦力」を選ぶ必要はありません。もちろん「即戦力」を排除する必要もありません。要は、可能性も含めて評価することです。今現に輝いている宝石もいいし、磨けば輝きそうな原石もいい、という感じ。

 抽象的なことしか書かれていないものは、たいていそのままでは使いづらいでしょうが、具体的な内容に置き換えられれば、独白(モノローグ)や会話(ダイアローグ)や場面(シーン)へと展開させることができます。ミーティングで出してもらう意見は、そういう具体的な内容の提案を含めての推薦でもいいし、あるいは文章や会話から「ここが特にいい」という一部分を抜き出すのでもかまいません。

 そういう提案型の推薦のための一つの参考として文書を作りました。このブログに、2回に分けて連載します。

*        *        *


 言葉は、それが置かれる脈絡によって輝きが変わるものです。そして、輝きを変えることでそれが置かれるべき脈絡を変えることもできます。

 例えば、最近映画化されたマンガのタイトルに「俺はまだ本気出してないだけ」というのがありますね。これをアレンジして、比較してみましょう。

 A.俺はまだ本気出してないだけなんです。
  A'.俺はまだ本気出してないだけなんだ。

 B.あいつはまだ本気出してないだけなんです。
  B'.あいつはまだ本気出してないだけなんだ。

 Aはすごく言い訳めいています。自分が大したことをしていないことを自覚していて、周囲から「大したことをしていない」と思われていることも察しがついていて、でも、自意識だけは尊大で、現実を受け入れられない。だから、周囲に向かって言いながら、その実、自分に言い聞かせている感じがします。A'だと、自分に言い聞かせている感じがより強くなります。

 Bは「あいつ」に期待しています。周囲が「あいつ」を批判したのに対して弁護しているのかもしれません。B'だと、「あいつ」を信じられなくなりそうな自分に言い聞かせている可能性も出てきます。

 このように、言葉からは往々にして、それを発する状況とか背景が透けて見えるものです。

 仮に舞台の上で観客に向かって直接語るとしたら、Bは「あいつ」に対して観客の同情を誘う言葉になります。これに対して、Aは「俺」の尊大な自意識に対する苦笑や、「どうせそのままズルズル生きるんだろ?」というツッコミを誘発します。その意味で、Aの方が笑いに向いています。

 同じような比較をもう1つ。

 A.あの人、たまにひどいウソをつくんです。

 B.私、たまにひどいウソをつくんです。

 Aは普通に考えると「あの人」に対して怒っている、嫌悪しているという背景が見えます。語る相手は誰でもよさそうです。ただし、語り手が「あの人」を愛しているという関係が設定されると、ひどいウソをつかれながらも信じようとしてしまうという悲しい期待感が、Aに込められます。そうなると、言う相手は親しい人、特に今現に相談に乗ってくれている人がふさわしくなります。

 Bは普通に考えると自己嫌悪の表出です。ウソつきな自分を持て余しているという背景が見えます。自分の重大な欠点をさらけ出すわけだから、語る相手は信頼できる人に限られます。ただし、大して親しくない相手にあえて言うという状況が設定されると、相手の反応を試すという挑戦的な響きが加わり、「私」が本当にウソつきなのか怪しくなってきます。

 舞台の上で観客に向かって直接語るとしたら、Aは「あの人」に対する先入観を観客に与えます。ただ先入観を与えるだけなら全く無駄ですが、後でAが「たまにひどいウソをつく」のには深いわけがあったとわかるというような意外な展開があるなら、Aは伏線として機能します。Bはそっと打ち明けるように語るなら、語り手が抱えている葛藤を観客と共有することになり、語り手と観客の間に内密な関係が成立します。同じBでも、観客に堂々と語るとしたら、「私は厄介な人間ですよ。あなたがたに理解できますか」と挑発することになります。

 同様の事柄を語るにしても、誰が語るかによって、それが語られる状況や、語る者と聴く者の関係が変わるわけです。

posted by TACO at 00:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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