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にじいろちらしずし第1.5弾
第一部 映画『ジェンダー・マリアージュ』上映
第二部 座談会「日本の学校におけるLGBT問題」
8月11日(木)祝日!
午前の部 9時30分オープン、10時スタート
午後の部 13時30分オープン、14時スタート
場所 ウィルあいち 視聴覚ルーム
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参加費(会場費、資料費) 一般1,500円、学生1,000円
お申込み・お問い合わせ
rchirashi★merushika.com
(★を@に改めてください。)
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2013年06月09日

「既成概念をブッ壊す」ということ その3

 スミスpです。

 5月14日に劇の方向性をめぐるディスカッションをしました。その時の私の発言から、「既成概念をブッ壊す」というテーマ設定に関するものを抜き出して、補足も加えつつこのブログに短期連載しています。今回はその第3弾です。

第1弾はこちら
第2弾はこちら

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 どんな物事でも、疑うことなしに深く知ることはできません。疑わなければ、既成概念のままに受け取ることしかできないのですから。

 まともな演劇を作るためには、演劇について深く考えなければならないし、深く考えるためには、疑わなければならないのです。疑うとは、固定観念とか既成観念とか思い込みとかいうものから自由になるために粘り強く格闘することです。

 演劇を疑うことなしに行われる演劇は、本当の演劇ではなく、演劇の形を真似するだけの“演劇ごっこ”に過ぎません。いい歳した大人の“演劇ごっこ”よりは、子供がする純正の“ごっこ遊び”の方がよほどましです。

 例えば“ごっこ遊び”でウルシラマンの役をやるとしたら、“シュワッチとしか言わない”“必殺技はスペシウム光線”という2つのことさえ守ればよいでしょう。誰も「ウルシラマンになりきれ」なんて無粋なことは言いません。その分、“ごっこ遊び”は純真です。

 演劇を疑おうとせず、わかったような顔で「役になりきれ」などという固定観念を撒き散らす“演劇ごっこ”は実に不純そのものです。

 演劇の主たる構成要素は言葉と身体です。演劇を疑うとは、言葉と身体を疑うことです。

 これまでの練習で、“今現にあるこの身体”が歴史的政治的に構築されたものであることを体感するために、能の所作に取り組んでみたことがありました。その時にいなかったメンバーもいるので、ああいうこともまたやってみましょう。

 言葉を疑うためのメニューはこれから用意します。言葉もまた歴史的政治的に構築されたものです。“今現にあるこの身体”に固定観念がまとわりついているのと同じように、あるいはそれ以上に固定観念と一体化し、人間の思考を一定の方向に誘導しています。そこを疑うことなしに、まともな表現はありえません。

 “表現ごっこ”“演劇ごっこ”が何かしら感動のようなものを生むとしても、それは作り手と受け手がめいめい勝手に固定観念を強化して自己満足に浸れたというだけのことです。そこには“真の共鳴”は存在しません。

 まともな表現をしたいなら、既成概念を疑うのは当たり前なのです。

posted by TACO at 23:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする