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にじいろちらしずし第1.5弾
第一部 映画『ジェンダー・マリアージュ』上映
第二部 座談会「日本の学校におけるLGBT問題」
8月11日(木)祝日!
午前の部 9時30分オープン、10時スタート
午後の部 13時30分オープン、14時スタート
場所 ウィルあいち 視聴覚ルーム
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参加費(会場費、資料費) 一般1,500円、学生1,000円
お申込み・お問い合わせ
rchirashi★merushika.com
(★を@に改めてください。)
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2013年06月01日

上手なウソつきにならないために

 スミスpです。

 演じるということの中には不可避的に「ウソ」が含まれます。

 例えば、自分自身が実際に体験したことを体験したとおりに再現してみせるとしましょう。「自分自身が実際に体験したこと」を演じるから「ウソがない」と言えるでしょうか? そんなことはありません。「再現」ということは、すでに起こったこと、つまり「今現に起こっているのではないこと」を「今現に起こっている」かのように見せるということです。そこにはやはり「ウソ」があるのです。

 このように、演じるということは「ウソ」の要素を必ず含むのです。その意味で、「ウソのない演技」とかいうものほどウソ臭いものはありません。

 これは演技だけに限ったことではありません。

 言葉はウソがつけるものです。「言葉」の定義によるのかもしれませんが、人間の言葉はそういうものです。反対に、猿が外敵を見つけたかのような叫び声を上げて仲間をだましたとか、ミツバチがいわゆる尻振りダンスで花がない場所に仲間を誘導してからかったとかいう話は聞いたことがありません。

 人間というものは、他の生物にはない様々な特質を持っていますが、「ウソをつける」ということもその一つです。ウソをつくというのは非常に人間的なことなのです。

 人間の言葉はウソがつける。だからこそ、人間が真実を語る言葉には重みがあるのです。ただ単にウソがないだけの言葉というものが存在するとしたら、それは猿が外敵を見つけて叫んだり、ミツバチが尻振りダンスで花のある場所を教えるのと変わりありません。そこに人間ならではの重みとか深みというものを見出すことは極めて困難です。

 事実と真実の違いとでも言えば良いのでしょうか。ウソと関係ないものが事実で、ウソを超えた所にあるのが真実。だから、ウソ無くして真実も無いのです。

 演技もまた同じ。自然な演技というものにしても、不自然さを抑えに抑えることによる自然さと、不自然さを超えた所にある自然さとは重みや深みがまるで違うはずです。

 不自然さを切り捨てた「自然もどき」は見るからに貧弱で不安定なのです。それでは重みや深みなんて望むべくもないのです。

 それは私もわかっているのですが、どうしたら演技が不自然さを超えた自然さを獲得できるのか、それが私にはわからないのです。わからないから演劇をやめたいし、わからないからやめられない。ああ、困った・・・

 現代の演技に奥行きなんて要らない。奥行きのある演技なんかよりも、うすっぺらな演技の方がいっそ現代的なんじゃないか・・・なんて開き直ることで逆説的に不自然さを超えられないか・・・なんて考えてみたりもするのですが、開き直るだけで一丁上がりなんて虫がよすぎる気もするのです。

 重要なのは、「ウソ」であることをいかに引き受けるか、ということだろうと思うのです。本当っぽく見せかけることで「ウソ」であることを隠し通そうとするのは、その正反対です。それではダメだということだけはわかっているのですが、隠さないというだけで説得力のある演技ができるというものでもありません。

 「ウソ」であることを真っ当に引き受けることが説得力につながるような演技・・・言葉で言うのは簡単ですが、簡単に言える言葉は簡単な分、空虚です。

 本当っぽく見せるということや、本当っぽさの内面化である「役になりきる」ということではない、演技の本当の説得力とは何なのか。それが問題です。

posted by TACO at 15:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする